浄土宗について
浄土宗とは、平安時代後期に法然上人(ほうねんしょうにん)が開宗した大乗仏教(だいじょうぶっきょう)のひとつで、お釈迦様がお説きになった「浄土三部経(無量寿経(むりょうじゅきょう)・観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)・阿弥陀経(あみだきょう)」をよりどころとしています。
法然上人は平安時代末期、美作(みまさか)の国(現在の岡山県)にお産まれになりました。 9歳の頃、父を失ったのを機に母方の伯父が院主を務める菩提寺(ぼだいじ)に引き取られ、その非凡な才能から13歳で仏教の最高学府である比叡山にのぼり、15歳で戒 (かい) を授かって正式な出家者となりました。
18歳のときに法然房(ほうねんぼう)という房号(ぼうごう)を、師である源光(げんこう)と叡空(えいくう)から一字ずつとって源空(げんくう)という諱(いみな)も授かり、正式なお名前は「法然房源空(ほうねんぼうげんくう)」となります。
比叡山を拠点に仏教・学問について深く学び、たくさんの僧侶と仏の教えについて語り合うにつれ、貴族だけの仏教に疑問を持ち、やがて仏教を大衆のためにと、他力の教えを広められるようになりました。
「いつでもどこでも南無阿弥陀仏を唱えれば、仏の救済を受けて平和な日々を過ごすことができます。」
ところが、その教えは当時の仏教では新しく、周囲からの反発や弾圧を受けるなど苦難の日々続きました。
しかし、法然上人は、この教えを広めることは決してやめないと決意され、やがてその教えは日本中に広まり、皇族から一般の人々に至るまで仏のお導きにより救われることとなったのです。
教義について
阿弥陀仏の御名「南無阿弥陀仏」を称え 人格を高めて社会のためにつくし
明るく安らかな毎日を送り お浄土に生まれることを願います
入滅の直前にあった法然上人が弟子の要請により残した教文「一枚起請文(いちまいきしょうもん)」には、そのみ教えの要がとても簡潔に記されています。
(法然上人の説くお念仏は)かつての中国や日本の高僧が仏の教えを説かれてきた、心を静めてみ仏を思い描きながら称えるものではありません。
また、み仏の教えを学び、その意味を深く理解して称える念仏でもありません。
極楽に往生するためには、ただただ「南無阿弥陀仏」と称え、迷いなく「極楽に往生するぞ」と思って称えるほかに相違ありません。
ただし、念仏を称えるにあたって「三心(さんじん)(至誠心(しじょうしん)・深心(じんしん)・回向発願心(えこうほつがんしん)」と「四修(ししゅ)(恭敬修(くぎょうしゅ)・無余修(むよしゅ)・無間修(むげんしゅ)・長時修(ちょうじしゅ)」というものがあります。しかしそれらは、「南無阿弥陀仏と称えて極楽に往生するぞ」と思い定める中に既に供わっているのです。
このほか奥深く難しく説いていたら、全ての衆生を救おうとするお釈迦様や阿弥陀様本来の救いの手から漏れてしまうことでしょう。
念仏を信じる人は、たとえみ仏の教えを深く学んだ人であっても、み教えの一文も知らない愚鈍(ぐどん)の身と思いなさい。 出家と称してただ髪を剃った人がみ仏の教えを学んでいなくても念仏を称えるように、知恵ある者のふりをせず、ただ一心にお念仏を称えなさい。
証(しゅ)のために両手を印(いん)とします。(実物には法然上人の手印が押されています)
浄土宗の心持ちと行の在り方をこの一枚に全て極めました。
源空(法然上人)は、この他に説くことはありません。 私が入滅(にゅうめつ)した後、異なる理解で誤った教義が広がることを防ぐために、その考えを記し終えました。